「贅沢」と「浪費」の違いってなんでしょう?

スピリチュアルな目覚め

こんにちは、AYUMIです。

連日、個人セッションが続いています。

クライアント様とお話しをする中で、度々浮かび上がるキーワードで「贅沢」と「浪費」があります。
その違いってなんだと思いますか?

結論から先に言えば。
自己の本質に目覚めている…つまり「本当の自分」で生きていれば「浪費」という概念はなくなります。

そして、「贅沢」という言葉でわざわざ括る必要がない「豊かな人生」になります

答えになっていないかもしれませんが、人生の中で「贅沢」と「浪費」という対比そのものがなくなるということです。

例えば、全く同じ店舗で、全く同じ品物を買ったとして。
「事実」は、商品がお店から購入した人の手に渡ったということ。

でも、手にした人の数だけ、そこには色々な背景や過程があり、感情や想いなどのストーリーがあります。

私自身、これまでの体験を通して感じるのは…。

「もの」でも、「時間」でも、「空間」でも。
有形無形に関わらず、その時々の自分にとって価値のあるものを、自分に与えてあげることが「贅沢」だと思います。

どんなストーリーでもいいのです。

そこに、金額の大小は関係ありません。

ただし、他人の「物差し」や「ジャッジ」が入らないこと。

そして、他人の「物差し」や「 ジャッジ」 というのは、ある意味、それらに翻弄されていた「過去の自分」ということもありますから要注意!

また、「不安」や「恐れ」がベースではないとも言えます。

その時の「私」がどうしたいのか?

実にシンプルですが、以前はそれに応えてあげることが、出来ていませんでした。

なぜなら、「私」にとって本当に価値があるもの(こと)が長い間わからなかったから。
溢れかえる情報に振り回されて、肝心の「私」はいつもそこにはいなかったからです。

自分の心の声に気づかず、目まぐるしく変わる外の世界に「人生の主導権」を握らせていれば、穏やかさや至福とは程遠いのは当然

「優劣」や「上やら下やら」、あるいは「多い少ない」など、情報に踊らされ煽られ、いつもなにかと比べる毎日。
何を手に入れても、どこで何をしても、決して満たされない現実が立ち現れます。

この「満たされない」という思いには「後悔」や「罪悪感」が伴い、それはすなわち「浪費」という言葉に変換されていました。

でも、自分の行いを「浪費」と認めたくない。
だから、もっともらしい理由でもって、無理やり「贅沢」だとこじつけていました。

ホントに、ずいぶんと失敗を経験しました。

でも、本来の自分として生きることで、外側の世界にあった人生の主導権は、「私」に戻ってきました。

ゆるっとした格好で、家で猫のジジと1日中ゴロゴロしているのも、私にとって贅沢な過ごし方。

自分で挽いて淹れた珈琲を、のんびり味わうのも贅沢な時間。

オーダーメイドでジュエリーを作るのも贅沢。

つまり、「本当の自分」として生きていたら、人生そのものが豊かな時間と体験の積み重ねにしかならないということです。

すると、「浪費」という言葉はなくなり、あえて「贅沢」と言う必要もなくなります。

様々なことに自然と感謝が湧き上がってきたのも、「私」という人生の舞台の真ん中にちゃんと自分が戻ってきてから。

「本当の自分」で生きるということは、それまでの概念を大きく覆して、「自由と喜びの世界」で生きるということ。

大切な「いのち」でもある時間を、「浪費」に費やしながら生きていくのか。
それとも、豊かで広がり続ける人生を、「贅沢」に楽しみながら生きていくのか。

どちらがいい悪いではなく、自分で「決めて」「選ぶ」ことができるのです。

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