こんにちは、AYUMIです。
先日の火曜日、またまた岡田歩さんとFacebookライブを行いました。
お盆の時期ということもあって、自然と「死」についての話も…。
お互いに、目覚めてから「死生観」が大きく変わったという点が共通項。
亡くなった夫が、私の中で優しく拡がった時間にもなりました。
目覚めてから変わったことについて話し始めれば、何時間でも喋っていられるぐらい。
本当に全く別の次元に移行しました。
それより以前の私は、いつも何かが「足りない」「欠けている」という焦燥感がありました。
だから何かで埋めよう、埋めようとしていました。
それは「もの」だったり、「人」だったり、「場所」だったり。
あるいは自分にとっての「特別な何か」 だったり。
自分にあてがうものを、探し求めていたんだと思います。
でも、どんなものだったとしても、一時的。
その時は、それなりに「満足」を与えてくれたけど、すぐにあらたな「渇き」はやってきました。
だから、さらに「何か」で埋めようと必死でした。
「このままではいけない」というエゴの仕組みが、当時はわからなかったから。
あのまま、エゴ主体で生きていれば、間違いなく「干からびた心」のままで一生終わっていたと思います。
そして、「このままではいけない」というエゴは、「今この瞬間」を素直に受け入れることを拒み続けます。
これって、本当に苦しい。
立ち止まることが恐くなるのです。
だから、常に自分を駆り立てるような人生になっていたんだと、今ならハッキリわかります。
でも、目覚めの種が芽吹いて、やっと気づいたんです。
私が、本当に欲しかったのは「安心」だった…って。
立ち止まっても大丈夫。
自分を駆り立てなくても大丈夫。
あなたのままで大丈夫。
矛盾しているようだけど。
究極の「安心」は、「不確実性」の中にしかありません。
全てが変わりゆくこの世界の中には、求めていた「安心」はなかったのです。
「不確実性」ってなに?って思われますよね。
「純粋意識」と言ってもいいし、「根源」や「全体性」とも言えます。
この小さな肉体に閉じ込められているのが「私」だと思い込んでいる限り、それはわかりません。
目覚めるということは、エゴではなく「本当の自分」で生きるということ。
その時に、ようやく気づくことが出来ます。
欲しい欲しいともがいていた「安心」は私達の「本質」そのものだということに。
何をどうやっても潤うことがなかった「心の渇き」は、目覚めと同時に満たされていきました。
亡き夫が、旅立った後に伝えてくれた言葉があります。
「自分で自分を駆り立て、馬車馬のように働かないと、自分の価値を認められなかった人生にはピリオドを打つ!」
「そう決めるんだよ」
「君は、存在しているだけでいい」